涙の谷
「私はね」
と母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」
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父は鼻の頭にたくさんの汗をかくと言われ、じゃあ、おまえはどこだい? と聞かれて答えた母の言葉だ。
太宰治の小説「桜桃」の前半部に出てくる一節なのだが、これを読んだ若い時分はかなり新鮮に思い「そうか、あのあたりは涙の谷というのであるか」と感激したものだった。
実際は、この後かなり深い話になっていくのだが、「涙の谷」と言われたその場所の形状を想像しちゃって、そのときは話がよく見えなくなっていたわたし、ああ、若かった。
と、そんな話をする予定ではなく、ここは素直に、汗の話。
わたしもいつも胸に汗をかく。
じわっと胸の真ん中が濡れる。
「ああ、これがオレの涙の谷」と、汗をかくたび思うのだ。
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