ため息の理由

 今朝、Facebookで「ため息が出る」ってことを書いたら、皆さんからたくさんのコメントを頂いた。ありがたい。



 いろいろなことが混ざってため息になるんだけど、父の入院や、日曜日の出初め式や、去年の7月に送った原稿の編集作業の遅れや、まあ、その他心配なことは諸々あるのだけれど、でも、一番のため息の原因は、先日事故に遭った車のことであろう。



 昨日、父の病院にいるときに、こちらの保険会社さんから電話があった。

 「修理のための部品がないようだ。中古部品も見つからない」と。

 だから、修理できないで全損ってことで話が付く可能性が高いと。その場合は数万円の車両時価額を相手の保険会社からいただいて、「さあ、あとはこの金で好きな車を買ってください」となるわけだ。



 わたしの車は古い。息子が生まれたときに記念に買った車だ。25年間の思い出があって、手放せなかった。古い車でエコじゃないからという理由で自動車税も上げられてしまったが、それでもそれを理由に捨てることはできなった。娘が小学生のときに貼ったシールがあるし、息子が5歳のときに結んだ匂い袋があるし、津川のキャンプ場で拾った恐竜の卵みたいな石が乗ってるし、我が家の歴史が詰まっている。



 今回、図らずも事故をもらった。動いている車同士だからわたしにも過失はある。言いたいことは多々あるけれど、過失が生じると言われれば、裁判に出てまで争うつもりもない。わたしも以前、そういう仕事をしてきているから、わかる。ごねても得するようにはできていない。



 わたしはただ、わたしの車が戻ってきてくれればよかった。中古の部品でもなんでもいいから使って、元の姿にしてもらえばよかった・時価額を超えたから払えないと言われたら、その超えたぶんはわたしが自腹で払うつもりだった。



 どうして頼みもしないのに勝手に車を壊されて、その修理の一部をオレが払わなくっちイケないのだという気持ちは正直いってあるが、しかし、それよりも、車が戻ってくるのなら、そちらを選ぶ。



 前にも追突されて、こちらにはなんら過失がないのに、その修理に自腹で何十万か払ったことがある。不本意ではあったが、それでも車を元に戻せることで納得した。しかし、今回はそれもできないのかもしれない。



 「直せませんから、このお金でよろしく」みたいに事務的に処分されてしまう車が不憫でならない。



 乗り続けていて、エンジンがどうにもならなくなったからとか、ボディが耐え切れない状態になったからというのなら悲しいけれど諦められる。長いことがんばってくれたねって、感謝しながら別れることができる。



 でも、今回のことで消えてしまうのは、悲しい、悔しい。

 たぶん、それが今日のため息なんだ。



 誤解のないように書いておきたいが、あちらの方に「保険が出ないぶんの誠意を見せろ!」と言う気はない。



 「なんだこんなポンコツ、これを機会に乗るのをやめろ」みたいなことをいう人が稀には いるが、そんな人が相手だったら遠慮はしない。



 しかし、相手の方は、とても心配してくれていた。もう定年を過ぎて無職になっている人から、保険以外のお金はいただけない。事故は、だれも得しない。だれもが失う。気をつけよう、自戒を込めて。








uni-nin's Ownd フジタイチオのライトエッセイ

0コメント

  • 1000 / 1000