ふと思う:消えそうシリーズ
はい、ビミョーに好評を博しております消えてしまいそうなエッセイシリーズ期間限定でございます。
「ふと、思う」
わたしのような無名のシロウトが、子育てのことなぞをコラムと称して書いているのは、じつに破廉恥なことなのだ。
たった二人の子を育てているだけで何様のつもりなんだろう。うん、恥ずかしい。シエーッと叫んで穴に入りたい。ほんとは、自分の子どもを育てることだけで精いっぱいな男なのだ。人さまの世話なんぞ焼いているヒマはない。
先日、子どもが不登校になって悩んでいると友人に相談された。
「愛情を持って、長い目で見て」と、その場しのぎの答えしか言えなかった。その程度なのだわたしは。自分の子どもだったら、そんな答えで満足できるわけがない。
「愛情」も「長い目」も、みんな持ち合わせながら悩んでいる友人は、そんなオリコウな答えがほしかったわけじゃあるまい。
思い出した。
生まれたばかりの娘の手をとり寝顔を眺めていたら、
「どんなお子さんになってもらいたいの?」と、いつのまにかそばにきていた年長の看護婦さんに話しかけられたことがある。
「どんなお子さんになってもらいたいの?」と、いつのまにかそばにきていた年長の看護婦さんに話しかけられたことがある。
ちょっと考えたけれど「幸せになってもらいたい」としか浮かばない。
自分のことを「幸せ」と思ってくれる人になってくれたら嬉しい。それだけでいいと思った。
しかし、いまはどうだ。
「オマエのためだ」といいながら、じつは親の欲のために子どもを叱り、親のための子育てをしているのじゃなかろうか。わたしは世間にたいして「自慢の子ども」を育てたいと思いはじめているのではあるまいか。子どもを自分の幸せのための道具にしていないだろうか。
「オマエのためだ」といいながら、じつは親の欲のために子どもを叱り、親のための子育てをしているのじゃなかろうか。わたしは世間にたいして「自慢の子ども」を育てたいと思いはじめているのではあるまいか。子どもを自分の幸せのための道具にしていないだろうか。
娘が学校から部外秘のアンケートをもらってきた。親が子どものことをどのように考えているかの調査らしい。
その最後に、「お子さんにたいする将来の希望はなんですか?」 なんだか漠然としているけれど。
妻と相談して「しあわせになってもらいたい」とだけ書いた。
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