父のこと
忘れられてしまいそうシリーズ
「父のこと」
手押しの車につかまりながら、ヨチヨチと散歩から帰ってきた父。少しでも、もとの体に戻ろうとがんばっている。
「じいちゃん、偉いね」とわたしが言うと「うん」と笑顔で返事した。
「じいちゃんの、いま一番の願いはなに?」と父に聞いたことがある。
すると、「ばあちゃんの足がよくなること」と答えた父。
自分の体も満足じゃないのに、母の痛む足を心配している父だった。
わたしは父のことが、嫌いだった。子どものころのわたしは、酔っぱらった父に叩かれてばかりいた。理不尽な暴力だけれど、体力的にかなわないから反撃ができなかった。それがくやしくてくやしくて、大きくなったらいつか殴り返してやろうと思っていた。しかし、わたしの成長に伴い、いつしか父は、手をあげなくなっていた。
その後、世間的にはふつうの父と子に見えていただろうと思う。しかし、わたしは父のことが嫌いであった。幼いころから殴られていた苦い思い出は、大人になっても忘れることがなかった。
その父が、わたしの目の前で倒れた。三年前(七年前)の夏だった。体の左半分を畳につけ、震えていた。右手がなにかをつかもうとするように、宙をかきまわしていた。
脳梗塞。脳の右側の三分の一が壊れていた。
その晩、妻や母を一旦家に帰し、わたしが泊まりで付き添った。ベッドの横の椅子に腰かけ、父の寝顔をぼんやり見ていた。ほらみろと、意識のない父に声を出さずに毒づいた。酒ばっかり飲んでいたからだぞ、と。
父の寝顔は穏やかだった。父はこのまま目を覚まさないほうが幸せかもしれない。目が覚めたら、つらい現実が待っている。そう思ったとき、突然に、本当に突然に、幼いころの情景が浮かんできた。
父が海に連れていってくれたこと。
抱っこして、ヘタクソな歌をうたってくれたこと。
こっそり食堂に連れていって「うまいか?」と、わたしの顔を見て笑ったこと。
父はわたしをかわいがっていた。
思えば、不器用で、正直で、まっすぐな父だった。それゆえに生活に疲れ、酒に負けていた時期もあったのだろう。そこに反抗期のわたしがたてついて、父をさらにイラつかせていた。
父はわたしを殴ったあとに、激しく自分を責めていたことだろう。親が子どもを心底憎んで殴るなんてこと、きっとできっこないんだもの。そんなことを思って父の寝顔を見ていたら、涙が出てきた。
死んじゃダメだ。まだ親孝行していないのだから、ここで死んじゃダメだと父の寝顔を見つめ、言い続けた。
そして、その願いは通じ、父は生還した。後遺症のせいで、心は小さな子どもに戻ってしまったけれど。足も引きずるようになったけれど。それでも父は生きている。
お父さん。死なないでくれてありがとう。わたしはお父さんの子どもでよかったです。ほんとうによかったです。ありがとう。
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