アタリマエのこと

わシリーズ
 
 アタリマエのこと
 
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 息子が保育園年長組の秋だった。わたしと息子は登園途中に気がかわり、 保育園をパスしてトンボ探しの旅に出てしまったのだ。
 
 夢を理由に十年間勤めた職場を辞めたのは息子が一歳のとき。それから五年過ぎて、青年実業家になってる予定が、気がつけばバブルが弾けて中年失業家となっていた。それからは女房の給料だけで食っていた。夢見る情熱はあれど、それを実現するための行動力がなかった。


 その日も仕事にいく女房を玄関で見送り、自転車の前のカゴに息子を乗せて保育園に向かった。すれちがうよそのお母さまがたに元気な声で挨拶をして如才のない主夫を演じつつ、しかし主夫としての誇りも持てずにイジケつつ、さて今日もこいつを保育園に送ったらダラダラとテレビでも見ていようかと思っていたところ、「あ、トンボだ!」と息子が叫んだ。
 
 「おとうさん、赤トンボだ。とってよとってよ」と前のカゴから立ちあがりそうな勢いで騒いだ。赤トンボなんぞ珍らしくもないが、どういうわけかその日の息子は異常にトンボに執着していたのだった。


 自転車を停めトンボを目で追っていたら、やたらと空が青いことに気がついた。そういえば、頭の上には空があるのだというアタリマエのことを忘れていた。久しく空なんぞ見てなかった。


 青い空をじっと見て「今日は保育園をサボって、息子と二人で旅に出よう」と決めた。
 
 家を出て数時間。「はいほーはいほー!」と気合の入った掛け声で息子はカゴのなかで踊っている。「もっと、スピードスピード」とわたしに催促する。わたしたちは稲刈りの終わった野道をママチャリで走っていた。天気がいい。空が青い。風が暖かい。


 いいかげん腹のへったところで自転車を停め、息子の弁当を二人でたべた。

無心にタマゴヤキを貪る息子の半ズボンから、可愛いチンチンがのぞいていた。指でつついてからかうと、そこをチラッとみた息子は「知ってるよ。朝からずっとでているんだよ。お父さんは知らなかったの?」といって真面目な顔をして、こんどはオニギリを頬ばった。そんなつまらんこと気にしているヒマは、息子にはないらしい。
 
 オマエはすごいなあ。いつも一生懸命に生きている。お父さんはグウタラなんだよ。世のなかの顔色を見てビクビクと調子よく、それでいて自信の持てる生き方をしようという努力をしていないんだよ。こんな父親ですまないなと、オニギリを食べながらコオロギを探す息子のちいさな頭に詫びた。
 
 「お父さんのこと好きか?」と息子の後頭部に向かって聞くと、

「・・・アタリマエでしょ!」と顔もあげずに息子は答えた。そんなことよりも コオロギがどこで鳴いているかが問題のようだ。


 「アタリマエでしょ、・・・か」と、息子の返事を反芻しながら寝ころんで空を見ると、耳もとでバババッとトンボの羽音がした。トンボが音をたてて飛ぶことも、わたしは長いこと忘れていた。


 息子を抱きかかえ、乾いた田んぼを全速力で走った。大声で喜ぶ息子といっしょに、なんども田んぼでひっくり返った。息子のように全力で生きよう。


 それがアタリマエのことなんだと気がついた。
 
 アタリマエでしょ、アタリマエでしょ。
 
 息子はそれからも、いろんなことに気づかせてくれた。


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 このエッセイからエッセイストとしてのわたしが始まりました。
 

uni-nin's Ownd フジタイチオのライトエッセイ

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