キャベツが生えていたのだ:わシリーズ
忘れさられてしまいそうなエッセイシリーズ
10年以上前のお話
「キャベツが生えていたのだ」
夕方、息子といっしょに犬の散歩をしているときに、キャベツが電柱の陰に生えていたのだ。
スーパーにならんでいるのとは違い、情けなくやせたキャベツだった。
なにかの間違いで、栄養の乏しい道ばたに種が落ちてしまったのだろう。落ちた種はイジケつつも根性で芽を出しここまで成長してきたのだなと、そのときは息子と二人でしみじみと感動して見つめていたが、わたしはそれきり忘れていた。
そのキャベツが、こんどは花を咲かせたという。わたしとちがって、もの覚えのよい息子が、友だちの家からの帰り道に見つけて教えてくれた。毎日、そこを通るとき観察していたらしいのだ。
玄関で「おとーさん、きてきて!」と呼んでいるから、WAOの締切りが近いのに、コラムをほっぽってわたしも見にいった。
なるほど。キャベツの真ん中から茎がでて、ちいさな黄色い花が何本か咲いていた。キャベツって花が咲くんだねと息子が驚いていうので、「大根だってニンジンだって、この道ばたの小さい草だって花は咲くのだ」とイバって教えてやった。
しかし、キャベツが花を咲かすなんてことは、わたしも長いあいだ忘れていたのだけれど。
なあ、このキャベツはなぜ花を咲かせたと思う?
息子に聞いたけれど、首をかしげている。
「うーん、わかんない」
「わかんないか」
「うん」
「キャベツはな・・・」
「うん」
「・・・咲きたいから、咲いたのだ」
と答えたら、
「そんな答えはズルいぞー」といわれた。
花は自分のために、咲きたいから咲けばいいのだ。蝶の機嫌をとるためじゃなく、人にきれいだと褒められるためじゃなく、自分のために咲けばいいのだ。
オマエも、オマエのために咲いたらいいよ。人の顔色を気にしてして咲くんじゃなくて、オマエがオマエのために咲いたらいいのだ。
と、息子の頭に手をやってつぶやいてみたけれど、わかったんだか、どうなんだか、息子はキャベツの花をじっと見ていた。
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WAO連載時代のエッセイでしたね。
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