恩ある場所へ

 これまでも何度かそばを通っていたのだけれど、いちども入ることができなかった。
 
 昨夜、この近くに住む人とお話する機会があり「○○の社長さんをご存じですか?」と聞いてみた。
 
 お元気とのこと。よかった。
 
 
 
 もう二十年も前のことだけど、わたしが仕事を辞めるにあたり、とくにお世話になった取引先の社長さんのところに挨拶にいった。
 
 その挨拶自体、かなり精神的には苦痛であったけれど、気力の残っているうちに顔を出さなければと思い、這うようにしていった。
 
 
 そして、「いろいろとお世話になりました」と伝えた。
 
 社長さんは驚き残念がり、そして「うちの会社にこないか」と言ってくれた。
「いまはまだ小さいが、いっしょにやっていかないか」と言ってくれた。
 
 とてもうれしかった。
わたしを必要と思ってくれる人がまだいることが、たまらなくうれしかった。
 
 
 でも、「はい」と言えなかった。
わたしはもう仕事ができない。わたしには仕事をする能力がないのだから、信頼してくれた社長さんを裏切ることになってしまうと思った。これ以上、迷惑をかけてしまうことが恐くてしかたなかった。逃げるように帰ってきた。
 
 結果として、それでよかった。
社長さんは会社を大きくしたし、わたしはエッセイストになった。
 
  
 
 二十年ぶりに、その扉を開けた。
開ける瞬間、ちょっと震えた。
 
 
 そこには二十年分齢をとった事務員さんと社長さんがいた。
 
 
 「以前たいへんお世話になりましたフジタ・・・」と言ってる途中で「おお!」と大きな声で「さ、入りなさい。そこに座って、ほら」と言ってくれた。
 
 
 やっといけた。
もういちど、「ありがとうございました」が言えた。
 
 
 

uni-nin's Ownd フジタイチオのライトエッセイ

0コメント

  • 1000 / 1000