悩めることのしあわせ

わシリーズ
「悩めることの幸せ」
 「強いクスリを打っているんです、隣の子。かわいそう」

 カーテンの向こうを見つめて、わたしにだけ聞こえる声で彼女は言いました。


 まだわたしが勤め人だったころ、同じ職場の女の子が足の病気で入院し、その見舞いにいったときのことです。


 「あの子、もう、右足が手術で・・・」と言ったきり言葉はありませんでしたが、それですべて理解できました。


 彼女のベッドの隣には、小学校に入ったばかりの男の子がいるのです。


  カーテンの向こうから、幼児番組の楽しい歌声が聞こえてきます。そして、それといっしょに男の子の苦しい息づかいと、その子を励ます、お父さんとお母さんのちいさな声。


 カーテンの向こうでは、とてつもなくせつない世界があったのです。


 この子の苦しみを替わることができるなら、それは自分がぜんぶ引き受けますと、その子の御両親は何万回も祈ったことでしょう。


 手を握り、祈る以外にどうしようもできないことがあります。誰のせいでもなく、不幸が降りてくることがあります。


 ゴメンねゴメンね、苦しませてゴメンねと、御両親は彼に何万回も謝ったことでしょう。自分たちのせいじゃないのに、病気を治してあげられない自分たちを責めてしまったことでしょう。


 もちろん彼は誰も責めません。彼は、いつでもそばにいてくれたお父さんとお母さんのことが、大好きだったにちがいありません。
 職場の女の子が退院する前に、その子は部屋を移り、そして病院を出ることになりました。・・・お父さんに抱かれて。


 子育てに行き詰まり悩むとき、あの親子のことを思い出します。


 誤解を恐れずに言わせてもらえば、子育てで悩めるということは、それはとても幸せなことだと思うのです。
 そこに子どもがいてくれるから、悩むことができるのです。
 いてくれなければ、悲しむことしかできないこともあるのです。


 悩めることは、それ自体が、とても幸せなのだと思うのです。
 

uni-nin's Ownd フジタイチオのライトエッセイ

0コメント

  • 1000 / 1000