ディルーム

 
 
ディルーム
 
 もうだいぶむかしの話になる。三十代の前半に、すこし重い病気を患って入院していたときのことだ。
 
 
 
 身重の妻への電話を終えて、この部屋に戻ってきたら、泣いている母娘がいた。


 初老の御婦人とその娘さんは、下を向いてハンカチを口にあてていた。娘さんが何か話そうとするのだが、泣き声になってしまい言葉に出来ないでいた。


 わたしはその母娘に面識があったので、「どうしました?」と聞こうかと思ったのだが、やはりやめた。「どうした」のか、聞かなくてもだいたいわかる。けっしてうれしい涙じゃない。
 
 わざと二人から視線をそらし、自動販売機からコーラを買って、知らん顔して椅子に腰掛けた。
 
 テレビはナイター中継をしている。
 この部屋の人たちはみな、泣いている母娘に気づかぬふりをして、テレビを見ている。

 
 彼女たちは、いまはここで泣くしかないのだろう。部屋に戻って笑顔を見せるため、ここで泣いていくのだろう。
 
 ナースが入ってきた。そして泣いている母娘のところへ行って一言二言ささやいた。二人はうなづいて彼女の後について出て行った。
 
 みんな、目だけで二人を見送った。
 
 わたしの隣にいた香具師のSさんが言った。

「あの二人、Dさんの家族だよな」

「うん、そう・・・」

 それ以上、何も言わなかった。


 あの家族になにがあったのか、それ以上は詮索しないことにした。
 
 「家族がいると面倒ですね。いなけりゃ、もっと気楽に病んでいられるのに」とわたしが言ったら「バカ言いなさんな。家族がいるからアンタ、必死に治そうと思うんだろ。帰りを待ってる人のことを、面倒だなんて言うもんじゃないよ」と叱られた。Sさんは、顔はこわいが言うことは優しい。
 
 この部屋は『ディルーム』という名前がついている。どんな意味なのかナースに聞いたがハッキリとした答えはなかった。
 
「さあ? 日があたる部屋って意味なのかしらねえ」彼女たちは、名前の意味を考えているほどヒマじゃないのかもしれない。
 
 Sさんとも、ここで知り合った。ある夜、部屋に入っていったら、そこに見知らぬ中年男がタバコを喫っていたのだ。当時は、入院していてもタバコが喫えたのだ。大らかな時代だった。
 
 目礼して椅子に座ったら「あんた、どこが悪いんだい?」と、やけにしわがれた声で聞かれた。
 
 ここにいる人は全員病人であるから、会話のきっかけは病名から聞いていくのが無難な方法だ。年中快適な室温に保たれている建物の中で禁足処分を受けているわたしたちに、天気の話題は意味がない。見舞い客に教えられて、はじめて外に雨が降っていることを知るしまつだ。
 
 「あ、えっと、胆のうがちょっとイカレまして」

「ほー。胆のうのガンなのかい。若いのに気の毒だ」


 「いや、まだガンじゃなくってですね、ちょっと胆のうの機能がおかしくなりましてね」

 「ああそうかい。そう聞かされているんだな」


 と、どうもわたしのことをガンだと決めつけているみたいだった。
 
 「奥さん身重だよな。そんな病気なのに子供を作るなんて、アンタ根性あるよ」としみじみ言った。


 臨月の女房が見舞いにくると、なにかと目立つ。まわりの人は、手術したわたしのことより、女房ばかり気にかける。もちろん、根性入れて子どもを作ったわけではない。
 
 「いつからここに入ってきたんだ。ずいぶんと前からいるようだけど」


 「一か月になりますね。胆のうを切って一週間目に腹膜炎になってしまって、あははは」と、本当は笑い事じゃないくらい痛かったのだが、すぎてしまったことは笑うに限る。
 
「難儀だなあ」と言ってSさんは新しいタバコに火をつけた。
 
 
「ところで、アナタはなんの病気なんですか?」

こんどはわたしが聞く番だ。
 
 「・・・ああ、オレは喉頭ガンだよ」

 「ガン、ですか?」

 「そう」

 「そうって。それなのに、タバコを喫ってもいいんですか?」

 「そりゃとうぜんよくないな」

 「よくないですよね、やっぱり」

 「だから、いつもナースに怒られる」

 そう言いながら、うまそうに煙をはいた。
 
 
 わたしの三度目の手術が終わったのは夜だった。目を開けたとき、辺りは暗闇だった。ベッドのまわりをカーテンで仕切られ、天井しか見えない場所は恐かった。このまま死んじゃうんじゃないかと思えるくらい恐かった。口に当てられた不味い酸素を、生きるためだと思って一生懸命に吸った。このまま目をつむったら二度と開けられなくなるのじゃないかという恐怖に襲われた。それから夜が恐くなった。
 
 動けるようになってからのわたしは、毎日ディルームに入り浸るようになり、誰か他の患者と馬鹿話をしたり、テレビを見たり、本を読んだりすることで、毎夜の恐怖を紛らわしていた。
 
 「夜なんてこなければいいのに」と、誰にも言わなかったが、たぶんみんなそんなことを思っていた。


 だから、消灯十分前の時間を告げるチャイムが鳴ると、気分が暗くなった。


 その夜も正確にチャイムが鳴り、一人、二人とディルームから出て行く。


 わたしも、コーラの空缶を握りつぶして、ゴミ箱に捨てた。そして、「ああ、また夜になってしまった」と思って歩きだした。


 すると後ろから

 「すまんが、立たせてくれないかなぁ」という声がした。

 声の主は、黄色い点滴を胸につなげている老人だった。椅子に深く腰かけたまま、立てないでいた。


 「はい、どうぞ」と、わたしは手を取って、ヨイショと引っ張った。しわくちゃのその手は、見た目とちがって暖かだった。


 「ありがとう」と、手を頭まであげて、「すっかり足腰が弱ってしまってねえ」と老人は言った。そして


 「また夜が来た。部屋に戻って寝なくっちゃならない」と老人はため息をついた。


 この人も、夜をこわがっている。
 なんと答えていいのか迷った末に、「明日またここで会いましょう」とだけ言った。
 
 老人は、わたしの顔を見てにこりと笑いうなづいた。
 その笑顔につられて、わたしもにこりと笑った。
 
 
 
 
 

**********家族っていいなあPart3より
 
 
 
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 その後、Sさんはわたしよりも早く退院した。

 その数日後にわたしも退院し、月に一度の通院となった。その何度目かの通院の日に、懐かしさでディルームを覗きにいってみたら、パジャマ着たSさんが、タバコ喫ってテレビを見ていた。


 なんと言っていいのかわからずに、わたしは声をかけずにそこから立ち去った。


 

uni-nin's Ownd フジタイチオのライトエッセイ

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