あの日、海の日:2
続き
■消防団としてやったこと。
倒壊した家屋の屋根に穴をあけ、中にいる人たちを救出した。
また、崖の亀裂や壊れた家々の屋根にブルーシートをかける手伝いをした。
橋と道路の段差が時間とともに広がっていくので、土のうを詰めて修復させた。
また信号機の機能しない交差点では、交通整理をした。
住民が避難所に行き空き家になっているところが多かったので、空き巣対策としても消防団は巡回していた。
避難所への物資を運ぶ作業をしていた。
物資のある市役所と避難所は四・五キロ離れたところにあったため、消防団がとりにいっていたところもあった。その四・五キロを走るのに、一時間以上かかる状態だった。
物資は一般の人たちを優先にした。団員は自主的に後まわし。
最初のころは、なにも食べずに動いていた団員もいた。そんななか、被災者でもないのに物資欲しさに配給の列に並んでいる人がいたことを知り、虚しさを感じた。しかし、虚しいからといって活動をやめてはいられない。
その消防団の姿を見て、避難所の人たちは安心してくれた。この人たちがいるから大丈夫だと思ってくれた。それが嬉しかった。だからこそ、がんばることができた。
多くの団員は、そのまま一週間、風呂も入らず同じ活動服を着たままコミセンに寝泊まりし消防団活動を続けた。活動服に塩がふいてた。
■一応のメドがつき
一週間後、一応のメドをつけ自宅に戻った団員の多くは、自分の家の壊れ具合にあらためて気づく。どこから手をつけていいのかわからない。使命としてあれだけ被災者のために活動してきた男たちも、自分の家のことになったら、一気に力が抜け、放心状態となってしまった団員も大勢いたと聞く。
これと同じ心理状態になることは、多くの取材先で聞かされた。みな、そのときは地域住民のためと思って懸命に動き働いていけるのだが、一応のメドがつき自宅に戻ったときに、我が家の荒れ具合にあらためて気づき呆然となる。すでに気力も体力も使いきっているのだ。
■消防団員はどうしてがんばれるのだろう
自分の身もたいへんなのに、自分の家も壊れているのに、どうして被災地の消防団員は他人のためにがんばれるんだろうと思うことがある。
わたし自身、いざというときにそれができるかと聞かれれば「もちろんできる!」と胸を張って言うことができない。「できる」ようにしたいが、そのときになってみないとわからないのが正直なところだ。「他人になんてかまってられない。家族が大事だ、自分が大事だ。」と思ってしまうかもしれない。そんなふうに考えて、「オレはじつは無責任なんだな」と自己嫌悪に陥ることもあった。
しかし、こうやって話を聞かせてもらって、わたしと同じように思っていた団員が多いことを知った。いざとなったら、地域住民のためにがんばることができるのかと疑問に思いつつも、いざとなったら、やっぱり体が動いた。困っている人がいたら、ほっておけなかった。消防団であるかぎり、皆を守ろうと、心が前を向いた。
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新潟県中越沖地震
平成十九年七月十六日十時十三分に発生した新潟県中越地震は、新潟県長岡市、柏崎市、刈羽村、長野県飯綱町の震度六強を最高に、新潟県中越地方を中心に大きな被害を与えた。
死者十五人、負傷者二千三百四十五人、住家全半壊七千棟。
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