あの日、海の日:1



 

あの日、海の日


 


 平成十九年の七月十六日。

 「海の日」で休みだった。


 


 あの日、わたしはある検定試験を受ける予定だった。その会場に向かう前に家でコーヒーを飲みながら参考書を開き、最後の見直しをして自信たっぷり「楽勝だな」と思っていたときに、新潟が激しく揺れた。


 


 三年前の中越地震のこともあり、今回も出動がかかるだろうと、参考書をほっぽり投げて消防団の活動服に着替え、いつでも出られるようにと待機していた。結果としては我が消防団の出動はなかったのだが、ナンダカンダで検定の受験はできずじまいだった。


 


 しかし、わたしはその日の受験料がムダになっただけであったが、その現場にいた柏崎消防団の皆さんは、それどころではなかった。その瞬間から、修羅場が始まっていた。


 


 その当時の様子を、柏崎市消防団幹部の皆さまから話を聞かせていただいた。


 


 


■そのとき


 


 そのときの揺れは、横になっていた人は、そのあまりの激しさに立ちあがることができなかったほどだった。


 二階にいた人は、階段を降りられない。重たい熱帯魚の水槽がすっ飛んできた。テレビもタンスもみんな飛んだ。温泉のお湯がチャポチャポ揺れて溢れ出た。走っている車のハンドルが急にとられ、最初はパンクかと思った。ふだんは二十分あれば帰られる道を二時間かけて家に戻った。


 


 道路がマトモではなくなっている。地割れ、陥没で波打っている状態で、また門柱や塀垣も倒れ、もはや通行できなくなっている箇所が多数だった。。


 


 また、障害物のないところでも、橋と道路に段差ができて通行できない。道路陥没、線路も曲がる。信号機も機能していない。


 


 また、停電でテレビがつかず、情報が入り難い状態になっていた。東京の親戚から電話があって、やっと自分たちの置かれている状況がわかった。


 


 


■家族と消防団


 


 地震のあと急いで家に戻ってみれば、やはり揺れて壊れて家の中はひどい状態になっていた。それでも家族は無事。ホッとした。


 帰ってきた夫の姿を見て妻は喜んでくれたが、家族の無事を確認したあとにやったことは、活動服に着替えることだった。


 


 それを見て妻は引き止める。


 「家がこんな状態なのに、なぜアナタは出ていくのか」と。


 「いつも消防団でがんばっているんだから、今日だけは、家にいてもらえないか」と泣いている。

 


 家には二歳の子どもがいる。夫として妻のその気持ちもわからないではないが、いや、じゅうぶんすぎるほどわかるのだが、それでも自分たちがいかなければならないのだ。



 「ゴメンな」と言いながらコミセンに走った。

 そこには同じような境遇の消防団員が大勢いた。みんな、「オレんちはまだ大丈夫だから」と集まってきていた。


 


 


 続く


uni-nin's Ownd フジタイチオのライトエッセイ

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