被災地を回って:陸前高田市消防団
●陸前高田市消防団 米崎分団
陸前高田市消防団 米崎分団第一部 部長大和田祐一さん
10時45分、待ちあわせ場所の米崎小学校に到着し、わたしは大和田祐一さんに電話を入れた。
「もしもし」
「はいー」
「米崎小学校まできました」
「おー。では消防の屯所にどうぞー」
「・・・ほ?」
ご自宅は震災で大ダメージを受けていると聞いていたので、大和田さんはてっきり学校の中の仮設住宅にいるとばかり思っていた。しかし実際は、仮設住宅のある米崎小学校隣の消防団屯所で寝起きしていたのだった。消防団として、なにかあればすぐに出動できる場所であるし、自分の分の仮設住宅をほかの誰かに使ってもらおうということであろう。
「こんにちは」と中に入っていったら、大和田さんは「よくきたね」と言って冷蔵庫から冷えたサイダーを出して「ほら、飲め」と奨めてくれた。暑い中、うれしいおもてなしだった。
じつは、youtubeに「陸前高田市消防団員の津波映像」という有名な動画がある。3部に別れて載っているのだが、どれもすさまじいものだ。
最初は、海面監視の様子から始まる。比較的リラックスしているようにも見えるが、途中、港の堤防を越えて水が上がってくると、一気に緊張が高まる。画面を上下に乱しながら「波が堤防を越えています! 逃げてください!」と懸命に放送しているところで終わる「その1」。
「ばあちゃん、そこあぶねえっての! ばあちゃん!」と叫びながらお婆さんを助ける様子。「じいちゃん、あがってこてば!」と叫んだその直後に、幼い女の子の悲鳴のような泣き声が入り、そこに走るカメラの映像。そして「くそぉ、手も足も出ねえよ、これじゃあ!」という嘆きの声で終わる「その2」。
これは、自動車の屋根の上に逃げて助けを求めていた幼い女の子の悲鳴であったが、この映像のあとに、無事救出できたそうだ。
そして「その3」は「おばさあん、あがれてばー! いま2波目がきてんだから」という必死の叫びの動画である。
ご本人は、「正直言えば、最初は好奇心からの撮影だよ」と言った。
「ほんとうなら撮影なんぞしていないで逃げればいいんだ」と、わたしをまっすぐに見て言った。
「しかし、だれしもあれだけの津波がくるとは思わなかったでしょう」とわたしが言うと「いや、我々はそうなるであろうことを見越すべきだったのだ」と、大和田さんは険しい表情でそう答えた。
2時46分地震発生。その後、津波襲来。
大和田さんたち消防団は、4時30分に避難所を起動させた。
地元米崎中学校に入り、男子生徒たちに山にいって木を集めさせ、女子生徒たちには学校じゅうにあるビーカーから洗面器から、とにかく水を溜められるものを集めさせた。そして、大人には米と釜。そして、夜の8時には、オニギリを作って避難しているみんなに渡すことができたという。冷静であり、的確な判断によってなせたわざだ。
取材にきたテレビ局の人に「いまメディアになにができるか?」と問われた大和田さんは、「避難所のひとりひとりの顔を写してくれ」と要請した。電話の使えない状態で、被災した人たちは家族の安否確認に苦労している。それをメディアの力を使ってやってほしいと言ったのだ。それにより、各避難所のテレビから、探している家族の顔を見つけ安堵した人も多かったであろう。
命の危険を感じたことはなかったかと聞いたら、ふっと笑って「そんなの、しょっちゅうだった」と答えた。
最初は、波が防波堤を越えてやってきたとき。じつはもうダメだと思って無我夢中だったという。しかし、そんなときでもマイクを使って住民たちに「避難するよう」と広報し続けた。
またもう一回は、土砂の中に埋もれた車の中から遺体を引き出すとき。そこでは車が横になってその上に大量の土砂が載っていた。子どもの遺体は後ろのガラスを破って出すことができた。だが、運転席にいる母親を出すには、後ろのシートが邪魔だ。しかし、そのシートがあるから車が潰れずにいるとも考えられる。
大和田さんは言った。「じつは、オレには後ろめたかったこともあってね」と。
「うしろめたい? なにがですか?」
「状況からして、このあたりにこの家族の遺体があるであろうことはわかっていた。しかし、重機がなければ掘り起こせないし、我々は生きている人を助けるほうが先であるから、わかっていたけれど手をつけないでいたんだ」と。大和田さんは、それを後ろめたいと言った。
誰のせいでもないのに、大和田さんは自分を責めていた。
「だから、危険だったけどオレが入っていくことにした。若い団員に、死ぬかもしれないクソみたいな命令は出せんよ。オレはヤツらとちがって、もう50年近く生きたしね。それで覚悟決めて中に入って、シートのボルトを外してひっぺがしたんだ。幸い車は潰れなかったから、母親の遺体を無事に出すことができた。オレも生きていたし」と淡々と語った。
「消防団員は、どうしてそんなふうに命を懸けてまで他人のためにやるんでしょうね」とストレートに聞いてみた。
大和田さんは、少し考えて「消防団としての自己の満足かな」と答えた。
自己満足というとわるい意味でとらえられるかもしれないが、自己を満足させるという意味で、人に対する自分の行為に無上の喜びを感じる行為、それが消防の自己の満足ではなかろうかと言うのだ。だからオレたち消防団は、人のためにがんばってこれたのかもしれないと答えてくれた。実際に命を懸けてきた人の、重い言葉だ。
4月末まで、彼らは遺体の捜索と回収をしてきた。苦笑いしながら、「若気の至りで団の上のほうの人には迷惑をかけることもあってね」と言っていたが、行政のほうとはいろいろなやりとりがあったようだ。しかし、それも地域の人たちのことを思った熱い行動であったろう。
そんな話をしているときに「お、ところでメシはどうした?」と聞くので「いや、まだです」と答えると「よっし、いこいこ」と車に乗せて海のそばの食堂に連れていってくれた。
「ここらは震災で食べもの屋がなくなってね、すぐに混むから早目にこないとダメなんだよ」と教えてくれた。たしかにお昼前なのに店内は混んでいた。そして、みんな相席。そんな中で、わたしはカツ丼、大和田さんは肉うどんを注文した。その代金は、震災でたいへんな大和田さんに出してもらうわけにはいかないからと言ったのに、大和田さんは断固として受けとらなかった。
できあがりを待ちながら、こんどはわたしの抱いていた後ろめたい気持ちを大和田さんに正直に伝えた。「懸命に活動しているあなたがたを相手に、わたしはこんなふうに金儲けのための仕事をしている」と。
その返事をもらう前に、カツ丼が届いた。大和田さんは「さ、復興のメシだあ。食おっ!」と言った。わたしも腹が減っていたので夢中で食べた。「うまい!」と言ったら、曇りのない笑顔で大和田さんは「うん」とうなずいた。
そして「オレらはこれからも、海といっしょに生きていくんだからよ」と言った。
*******
「オレたち消防団!」より
0コメント