わたしのねがい2
「わたしのねがい2」
エッセイスト 藤田市男
娘が生まれた四年後に息子が生まれました。
その息子が一歳のときに、わたしは「うつ病」になって勤め人を辞めました。
「エッセイストになるため仕事を辞めたフジタさん」と紹介されることがありますが、実際のところは、「心を病んで勤め人を挫折してきたフジタさん」が正解です。自慢にもなりませんから、大きな声では言いませんが。
その当時、息子とは朝から晩までいつも一緒でした。オムツもミルクもお風呂も散歩もわたしはみんなやりました。息子が成長し保育園にいくようになってからは、その送り迎えがわたしの役目でした。
わたし自身はおかあさんがたの中に混じることがちょっと恥ずかしく思っていたのですが、息子はとても喜んでくれました。わたしのこぐ自転車が、よそのおかあさんがたよりもずっと速かったからですね。
行きも帰りもおかあさんがたの自転車をゴボウ抜き。息子は「お父さんの自転車は速いんだぞー!」って、前のカゴに乗って得意がって叫んでいました。
息子も娘と同様、かわいくてかわいくてしょうがない存在でした。この子の苦しみ悲しみ、この先に予定されている不幸があるとしたら、みんなわたしが引き受けたいと思っていました。
あのころに戻りたいと思うことがあります。戻って、もういちどやり直したい場面がいくつもあります。あんなふうに怒らなければよかった。あんなふうに泣かさなければよかったと、後悔でいっぱいです。
お父さんは世界でいちばん強い。お父さんは世界でいちばんモノ知り。お父さんは世界でいちばんいい人なんだって信じていた子どもたち。でも、実際はそんな立派なお父さんじゃありません。ロクデナシです。
生まれたときは、「生きていればいい、それだけでいい」と、そう思っていたはずなのに・・・。
子どもたちが成長するにつれ、いつのまにか「オマエのためだ」と言いながら、親のわたしの欲のために子どもを叱り、わたしのミエのための子育てをしていることがありました。わたしは「世間に自慢するための子ども」を育てたいと思っていたのでした。
そんなわたしに叱られて、泣きながら眠ったその顔に、涙のあとがくっきりと残っていました。その涙のあとを拭きながら、わたしはなんと愚かな親だろうと思いました。
そんな愚かな父であっても、子どもたちは目を覚ますと、わたしのそばにきてくれました。
わたしが「ゴメンな」と謝ると、「平気だよー」と言ってわたしのほっぺを指で突つきながら許してくれる子どもたち。わたしはそのつど子どもたちに許してもらって親を続けてきたのです。
いま、わたしの願いははっきりしています。
「子どもたちが幸せでありますように。この世に生まれてきたことを喜べますように」。
そのほかのよいことは、オマケなんだと思います。
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